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亀山焼(かめやまやき)は、江戸時代後期の長崎で作られた陶磁器のこと。上質の白磁に中国から輸入された呉須による文人画風の絵付けが有名であるが、竹花氷裂文や石畳文など、長崎特有の異国情緒を感じさせる図柄も多い。伊万里に比べ呉須が全体的に濃いのが特長である。製陶期間が約50年と短く、伝世品が少ないことから幻の焼き物と呼ばれ、とくに上手のものは収集家の間で珍重されている。銘は一重四角内に「亀山製」の文字を紋様化したものや、「崎陽亀山製」「亀山」など楷書や行書で記したものが散見される。坂本龍馬の愛用茶碗〔「龍馬愛用の飯碗と湯呑み」 下関市立長府博物館蔵〕は亀山焼である。 == 概略 == 文化4年(1807年)、大神甚五平・山田平兵衛・古賀嘉兵衛・万屋古次吉によって長崎伊良林垣根山で開窯される。創業資金は長崎奉行所産業御調方からの借入金でまかなわれた。当初はオランダ船が需要する水甕を焼くための窯だったことから亀山焼と命名されたともいう。 ナポレオン戦争の影響で外来船の寄港が大きく減ったため長崎奉行所の指導の下、文化11年(1814年)に大村藩の波佐見焼や長与焼に関る陶工を招いて白磁染付の製作に転換。原料の粘土は上質の天草陶石や中国の蘇州土を使用。顔料も良質の花呉須を中国から取り寄せた。 崎陽三筆と称される木下逸雲・祖門鉄翁・三浦梧門や当時豊後に居住していた田能村竹田など著名な文人が下絵を引き受け、文人画風の雅味のある絵付けとなった。 文政2年(1819年)には大神甚五平の単独経営となり、寛政・天保年間には全盛期を迎え、その品格の高さが評判となった。天保10年(1839年)、大神甚五平が65歳で没し、二代目甚五平が窯を引き継ぐ。 慶応元年(1865年)3月、財政難のためついに廃窯となった。同年、小曽根乾堂の資金援助を受けて亀山焼工場跡地を高田利平が購入。同年から二年間、坂本龍馬が率いる亀山社中の活動拠点となる。 その後、明治になって高田文平によって亀山焼が再興されるが永続することはできなかった。また小曽根乾堂はその長子小曽根星海(晨太郎)に亀山焼の再興を託した。星海は明治24年(1891年)から32年(1899年)頃まで自宅邸内にて小曽根焼(鼎山焼)を開窯している。 現在髙田文平の子孫高田祐治が三川内焼の嘉泉窯に協力を依頼し、亀山焼を『崎陽亀山焼 髙田茶屋』として再興中。髙田茶屋とは亀山社中の有った一帯を、幕末から大正9年まで髙田一族が所有し使用した、その一時期を亀山社中へ貸したと思われる。昭和12年3月10日付けの長崎日日新聞に、坂本龍馬等が仮寓したと云う(旧髙田茶屋)と言う記事が掲載されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「亀山焼 (長崎)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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